2022年5月6日金曜日

経済・エネルギー連合国家群相関図[Bretton Woods III]

           経済・エネルギー連合国家群相関図

[Bretton Woods III]






post-Ukrinaの時代は、上図にある通りに、次の7つの経済圏に大きく分かれる。

I 経済連合視点
1。ユーラシア連合国家圏
2。中国連合国家圏
3。BRICS連合国家圏
4。OPEC連合国家圏
5。ヨーロッパ連合国家圏
6。アメリカ連合国家圏
7。日本連合国家圏

II 基軸通貨圏視点
1。ルーブル基軸通貨圏
2。人民元基軸通貨圏
3。ルピー基軸通貨圏
4。ドル基軸通貨圏
5。EU基軸通貨圏(いづれ自壊する)
6。OPEC基軸通貨圏
7。円基軸通貨圏(日本の意志次第)

III 地政学的圏域
1。アメリカ圏域
2。西欧圏域
3。東欧・ロシア圏域
4。インド圏域
5。中国圏域
6。アジア・太平洋圏域
7。西アジア・中近東圏域
8。アフリカ圏域




2021年2月5日金曜日

私の本棚:深田萌絵著『日本のIT産業が中国に盗まれてゐる』を読む

これは題名通りの内容で、中身の紹介をしても仕様がない。中身が濃すぎるからです。要するに、中国が日本のIT産業の技術を盗んでゐて、日本の政府も行政府も確たる国家安全保障の考へを欠いてゐるために、私たち国民の生活と日本の国を非常な危険に晒し続けてゐるといふ事実を詳しく丁寧に書いた本である。文字通り買ふに値する本です。以下、私が学び知つたことのみに徹して続けます。本を買つて読んでください。


最初の「プロローグ日本人にとって本当の戦いが始まった」14ページを読むだけで、相当の情報の量と質が詰まつてゐて、これを土台にして読むと第一章から終章(第四章)までの内容が一層構造的に、今IT通信産業の世界で何か起きてゐるかを、中国共産党が1999年に『超限戦』の発表と同時に仕掛けて来てゐる戦争との関係で、より深く正確に理解することができて、あなたが日常ネットとマスのメデイアに流通してあなたの手元にやつて来る情報の真贋を見極め、また独自に自分の頭で情報の評価を下すことに、大いに役立つ、これは良書です。


本当は啓蒙書と書きたかつたが、この此の語彙の選択に私の躊躇するところは、もはや18世紀的な啓蒙の速度ではIT技術と此の技術革新に因る時代の進展速度が早すぎて、著者の啓蒙書はそのまま告発書と呼ばざるを得ない性格の本にならざるを得ないところまで現実的な事態の進展は来てゐるといふことだからなのです。今や、啓蒙書は告発書になつてしまつた時代を私たちは生きてゐる。啓蒙しようとして事実を書けば、さうなる。ですから、専門家が安全保障の一冊の本を書いて出版社から出したとして、たとへそれが啓蒙書であれなんであれ、書店の書棚に並んだ時には既に時代遅れの本になつてゐて、書いてある内容は既に現実の生活には、即ち私たち個人が一人一人我が身を安全保障するためには役には立たないといふことなのです。このことのよく分かる、良い本です。この著者には別に『5G革命の真実』といふ本も書いてゐて、この時も私は著者の文章の持つ散文性の高さに驚きましたが、この本の略歴を読んで、ICチップ設計とICチップ応用解決策提案会社の経営者であることを知つて納得しました(本人はコンピューター・ソリューション開発企業の経営者と自らを呼んでゐる)。それにまた『5G革命の真実』を初めて読んだときに驚いた此の「女だてらに高い文章の散文性」は(これは褒め言葉である)、自筆の後書きを読むと高校生時代からブルーバックスを読むのが好きだつたとあつて、実は此の著者は、これだけ思考論理性が高ければ、安部公房のよき読者となる筈です。どうか安部公房を読んでをくれ。本人は画学生であつたやうですから、その絵も非常に論理的な散文性の高いもかと想像します。しかし逆に非常に抒情性に富んだ絵かもしれない。かういふところが人間と藝術の関係の面白さです。本人はネット・メディアのチャンネルでは、私にはよく意味のわからぬ「ITビジネス・アナリスト」を名乗つてゐますが、その意味がよく分かつた一冊でもありました。この著者の本名は、不可思議萌絵といふのではあるまいか。


今の世の中を眺めるときに、『超限戦』の戦争に対抗し打ち勝つためには、同じ平面上で、次のやうに世の中を眺める必要があるといふことです。世の中の世は、I T通信技術の発達によつて、もはや世界といふ意味になつてしまつた。紫式部が聞いたらさぞかし驚くことだらう。


1。情報技術分類

(1)半導体技術

(2)仮想通貨技術

(3)人工知能技術

(4)通信技術


一つの技術が話題になつた時に、これら四つの技術分類の項目から当該技術の吟味をすることである。これがそのまま国家と個人の安全保障について考ヘることになります。情報技術分類は同時に、その反面は諜報技術の分類になることを、あなたの心に銘記して下さい。即ち、あなたの手にする俗称スマホがそのまま諜報技術の結晶だといふことです。これが、この本のプロローグの教へるところです。さて、その上で、次のやうな分類を併せもつて情報を読み解く必要があります。中国共産党を以下中共と略称します。


2。中共脈の分類

(1)法人脈(会社脈)

(2)個人脈(人脈)


これには更に、表・中共脈と裏・中共脈があるので、


3。表裏分類(中共脈を含む)

(1)表脈

(2)裏脈


といふ二面で、あなたの手元に来る情報を、技術に限らぬ情報、例へば社会事件、政治事件、経済事件であつても、読む必要があるといふことです。このことを此の本は教へてくれる。


もう一つの分類は、著者がソフトバンクを巡る腐敗中共脈のことから得ることができる次の分類です(同書11ページ)


4。傀儡人形劇分類

(1)傀儡(かいらい・くぐつ)

(2)人形使ひ


この人形劇または傀儡といふ文字の方がおどろおどろしくて私は好みですが、このクグツ人形劇を監督する舞台監督が他にゐるだらうといふことになりますので、この分類は、


4。傀儡人形劇分類

(1)傀儡(かいらい・くぐつ)

(2)人形使ひ

(3)舞台設定・監督者

(4)脚本家(シナリオ・ライター)


といふ風にした方が実利的な情報分析ができるでせう。


(4)は今やディープ・ステート(DS)と呼ばれて世界に有名になつてしまつて舞台の上に上がってしまつた。このシナリオにそつて舞台に上がつてゐる傀儡たちの集まりがビルダーベルグ会議であり(これが上記(3)の、各国家に帰れば統治者として振る舞つてゐる人間たち)、この会議の決定を受けて動き廻る傀儡であり人形であるのが、政商・代理人の政治家・代理人の役人ども、といふことになる。これらが(1)である。残る(2)は政界・財界・官僚界にゐる要衝に当たつて本来は国を守る現場の長足べき何とか政務次官などといふやうな肩書きの人間たちでありませう。勿論官僚界のみならず与党ならば幹事長とか政府ならば官房長官とか、まあ、非喜劇を演じてゐる。いふまでもなく、当人には喜劇(何しろ喜びであらう)、しかし国民には悲劇(観るだに悲しい)。


さて、勿論、上記の4番目の分類は、2番目の表裏分類と併せて、私たちはスマホ時代のpersonal journalistとして情報分析をすべきなのです。


上記に「腐敗したソフトバンク」と書いた理由は、国民の利益に反しまたは損なふといふ意味です。著者は此れにソフトバンク社員がファーウエイ社員に頻りに深圳旅行接待を「おねだり」されたといふ後者の元社員の言葉を引用して説明してゐるところを見ると、これは中共である以上、確実にマネー・トラップのみならず、ハニー・トラップも仕掛けられてゐる。


更に、もう一つの分類は、通信技術の世界のみならず、著者がよく口にする中国・台湾のシンジケート青幇(ちんぱん)に典型的な様に、一言でいへばネットワークで私たちはものを考へねばならない時代になつてゐることを自覚すべきだといふことです。シンジケートもネットワークの一種です。上記に書いた「2。中共脈の分類」も「3。表裏分類」も脈といふ一文字で私の言ひ表したかつたことは、ネットワークといふ意味です。


北朝鮮の拉致被害者のご家族である横田めぐみさんのお母さんが或る時インタヴューに答へて話す言葉が、本来ならば外務省の役人や国会議事堂の中にゐる政治家の発言であるべき言葉なのに私は怒りを覚えたことがあります。一体何故、庶民が国家を代表した言葉で訴へねばならないのか、と私は怒つたのです。政治家も役人も何も仕事をしてこなかつたといふ事実を、この横田早紀江さんの言葉が天下に示してゐた。ここで私は、恥を知れ、政治家ども!(もはやドモである)、恥を知れ、役人ども(これもドモである)と心中、叫ばずにはゐられないのです。


同じ思ひを、この著作を読みながら思ひましたので、最後に著者による後書き「おわりにー人権のパラドックス」から最後の二段落を引用して此の書評を終へることにします。日本人といふ人間を奪はれ、今度は国家の命までも奪はれてゐて見て見ない振りをしてゐるのか、恥を知れ!十把人からげの非人どもよ!ICチップは、私たち日本人の米粒である。これは深田萌絵といふ一企業経営者の口にする科白ではなく、本来は政治家と行政官僚のいふべき言葉である。何故この後書きが「人権のパラドックス」と題してゐるのかを、政治家モドキと役人モドキにとくと読んでもらひたい。国家予算を費消してもしても良いから(これは無駄遣ひではないから)、この本を政府は買ひ込んで国会議事堂内と霞ヶ関に配布して、日本国民に対して各省庁のホームページで彼奴ら(もはやキャツラである)に感想文を発表させて、これを国民に提出しなければ、お前の給与を減額するか賞与は今年はないぞ位のことを言つてみろ。これが私人のいふべき策か?坂本龍馬ならば船中八策を書いたのであつたな。それなら、深田萌絵は女龍馬であらうか。判断は読者にお任せします。ご一読下さい。時代はは今やIT幕末時代であることが分かります。


「金融政策だけで景気を刺激するのは限界で、技術流出の防止や産業政策に力を入れるべきである。国家が明確な技術ロードマップを持って資本投資を行い、民間セクターで賄得ない技術防衛政策について補うべきである。それには、米国のように体系化された「知」と、長期的で柔軟な「計画」、そして、国境を超えた技術スパイという国際犯罪に立ち向かう強い国家の枠組みが必要だ。

 わが国が、知見の高い民間の識者をより多く起用して知の体系化を図り、官僚や政治家のサポートとなる国家のシンクタンクが設けられることを期待してやまない。」


知の体系化も長期計画もシンクタンクも、皆、あれもこれも今の政府と官僚に最も欠落してゐる能力である。この本の出版されたのが2018年12月。この月からこれまでの間にも私たちの手元から失はれたものがたくさん見えない形である筈です。その失つたものを今武漢ウイルスまたは新型コロナと呼んで総称してゐるのではないか?


この本を手に、あなたの、自分の頭で考へてもらひたい。




2017年2月1日水曜日

ポスト真実(2):ピューリッツア賞受賞『黒い旗』

Schwarze Flaggen Der Aufstieg des IS und die USA

これは今月ドイツで出版されるISとアメリカ政府の繋がり(アメリカ政府によるISへの支援)について書いた本で、この著者のJoby Warrickは、ドイツ語の紹介記事によれば、1996年以来ワシントンポストの記者とあり、この本で二度目のピューリッツア賞を受賞してゐます。Pulitzer.orgのウエッブサイト上の著作に関する発表記事です:http://www.pulitzer.org/winners/joby-warrick

ドイツ語訳の題名を日本語にすると、『黒い旗』となり、副題が「ISの台頭とアメリカ合衆国」となります。英語の原題は、『Black Flags: The Rise of ISIS』:https://www.amazon.com/Black-Flags-Rise-Joby-W…/…/0804168938

ドイツ語訳が2月に出るといふ事は、既にアメリカの国民は此の著作を読んでゐる訳ですから、出版が2016年であつて、授賞式が同年の 4月18日である此の著作をアメリカのジャーナリズムが読んでゐないわけがありません。現にニューヨークタイムズの書評の言葉が英語版の表紙に印字されてゐます。

といふ事は、オバマーヒラリーが敗北し、トランプが勝利して大統領になつたについては、少しも番狂わせなのではなく、この本の深い影響もあるのではないでせうか。

今Googleで検索しても、この本の日本語訳の気配はありません。日本のジャーナリズムは、読んでゐないと考へられます。英語に堪能なジャーナリスト以外は。しかし、それでも読んだといふ声が上がらないのは、日本には知られてゐないといふことなのでせう。

この方面からの報道を、ネットのメディアに期待をします。地上のメディアの言語能力と読解力には全く期待をしてをりませんので。


ISの使用してゐる「黒い旗」または「黒旗」の意味については、このURLで知ることができます:http://ikeuchisatoshi.com/i-1203/

2017年1月29日日曜日

「ポスト真実」とは何か:現代の情報空間について

欧米のジャーナリストたちが今、現代の情報空間の特徴を「ポスト真実」と呼んでゐるさうである。これを聞いて知った、言語の世界から眺めたわたくしの感想は以下の通り:


現代の情報空間の特徴を「ポスト真実」と喝破した欧米のジャーナリストの見識とセンス、だとは私は考えません。

何故なら、これまでもポスト・モダンと言ったり、ポスト何何といふ名前をつけて
欧米人は来ましたが、これは結局私の所見によれば、ものを考えないことからくる苦し紛れの命名なのです。

ポストがあれば、プライアー(piror to)があるわけで、何を言いたいかと言いますと、時間の中でだけ、時間軸だけでものをかんがえようとすることから逃れられてゐない欧州人、白人種の当座の凌ぎであらうと思はれます。

この大陸の白人種たちは、学問の分野にあっても、異領域や隣接領域との知識の共有をしておりません。やはり欧州にも社会的組織的に知的劣化が起こってゐるのだと考えてゐます。(この根拠を言えば話がながくなるので省略しますね。)

ですから、今Wikipediaを参照しますと、次のやうにあります:

「ポスト・モダニズムという用語自体は1960年代にも確認することができるが、ポスト・モダニズムという用語が今日的な意味で使用されるようになったのは、チャールズ・ジェンクスの『ポスト・モダニズムの建築言語』(1977年)が最初であり、建築・デザインの分野で盛んに用いられた。ジャン=フランソワ・リオタールが『ポストモダンの条件』(1979年)を著すと、フランス現代思想界に大きな影響を与え、その影響はアメリカを中心に広がりを見せ、やがて分野を超えて大きな時代の潮流を形成するに至った[2]。」

この説明を見ますと、既に1960年代に予兆あり、1977年には大ぴらになった(欧州において)といふことになります。(私が上で述べた判断の根拠も、やはり建築の世界の様式についての概念を定義できないドイツのprofessor(professorですよ!)の著書を読んで知ったことです。もちろん、著書自体は素晴らしい欧州横断的な説明と資料の満載の良い本でした。つまり、しかし、この大学教授は自分の専門において体系的な分類と叙述ができないといふことに結果としてはなりますね。)

1977年には遅くとも、欧州の知的劣化は明瞭に専門家たちに意識されたといふことになります。今欧州の統合体であるEUの歴史と関係がないかと見ますと、Wikipediaには、次のやうにあります:

「• 1958-1969年
フランスのシャルル・ド・ゴール大統領の影響が大きい時代。欧州統合の国家連合的性格が強まった時代。
1970-1985年
1970年の欧州政治協力(EPC)の発足、経済通貨同盟(EMU)の試行や、1979年の欧州通貨制度(EMS)の設立、それに伴う欧州通貨単位(ECU)の設置などに見られるように、欧州統合の進展は見られたものの、2度の石油危機もあり、それぞれの欧州国家は内向きであった時代。」

この記述を見ますと、欧州の統合と何か符節を合わせてゐるやうに理解することができます。欧州の統合と共に、ポスト・モダンが現れた。つまり、globalismの完成してゆくプロセスの中で、ある一線を超えて現実性が高まって、可能性が蓋然性になった時に、

とすると、欧州のポスト・モダンが現れた。といふ事が出来るのではないでせうか。

とすると、今や2016年の英国のEU離脱の事実と現実を前にして、欧州の統合が危殆に瀕してゐる時に、「ポスト真実」”post-truth”が問題になってゐる。事実そうであり、トランプの大統領就任は、 アメリカも含めたglobalismの崩壊を意味してゐます。

今度の、欧州人やアメリカ人、即ち白人種による命名が、post-modernといったやうな時代区分に関する命名ではなく、物事の理非曲直、即ち真理、truthといふ人間の思考の根底、根本に関する命名であるといふ事が、田尻さんのおっしゃる「現代の情報空間の特徴」を明らかに言い表してゐると思ひます。

これは、欧州文明にとっては危機的な状況です。

ですから、本来ならば、近代に確立した哲学の歴史に戻って、言語と論理と思考の領域での、彼らの学問の上での最高度な思考の階層での見直しをなすべきなのです。即ち、この方面からいっても、globalismといふ共産主義(communism)の見直しです。これをやれば、コロンブスがアメリカ大陸を発見したのではなく、誰がコロンブスを発見したかを論じ、自らの近世近代の罪深い歴史を反省することになるでせう。これは、良いことであり、今起きてゐることの、それこそ時代の趨勢であると私は思ひます。

としてみれば、上の言及したドイツの建築の専門のprofessorが学際の共有をしてゐないといふ知的劣化のことと同じことが、やはり政治と経済で起きてゐるといふことになります。


Globalismが学際的な国を超えた共有を劣化させ、anti-globalismが、これを求めるといふのは、皮肉といえば皮肉ですが、しかし、これは逆説などではなく、これこそ真理、truthであると私などは思ひます。何故ならば、差異のないところに共有はありえないからです。この差異を同類の別の言葉で言い換えても変わりません。民族自立自決といい買えると、今とこれからの日本の少なくとも数百年を考える議論になりますね。そのやうな議論をすることを、もはや増すゴミには期待してをりませんので、ネットメディアにはお願いをしたいと思ひます。

2016年12月10日土曜日

ユーラシア大陸の東と西で何が今起きてゐるのか?

ユーラシア大陸の東と西で何が今起きてゐるのか?

今、ある文章を読んで、ふと思つたのだが、中華人民共和国といふ中華思想とマルクス主義を体現した中国共産党の支配する国の貨幣価値の崩壊は、ヨーロッパ白人種による此の500年の近代といふ時代が生み出したグローバリズムの終焉を最後に人類に示すことなのだな。

この事は、今ヨーロッパで起きてゐる移民・難民問題が500年かけて巡り巡って地球を一周して自分自身に戻つ来てゐる(お釈迦様なら因果応報といふだらう)現実と密接に深い関係があるな。

地球のユーラシア大陸の東と西で同じ事件が起きてゐるといふ事になります。

かうして考へて見ると、イギリスがヨーロッパではないやうに(ヨーロッパ大陸又は大陸ヨーロッパに帰属しないといふ意味ですし、これが歴史的・伝統的・地政学的にイギリスがEUから離脱した一番の理由だと私は考へる)、実は、日本もアジアではないのです。

脱亜論なども近頃では論ぜられてをりますが、そもそも脱する必要はなく、既に、最初から、そもそも、日本は日本であつたし、ある、といふ事が判ります。

この考へから/で、我が国を論じては、みなさん、如何か。


それでは、何をどうやつて論じるのか。即ち、大陸をではなく、海洋を主体にものを考へるといふ事です。即ち、海と島で地球を眺めるといふ事です。大陸の人間が、海洋と島の歴史と伝統を学ぶといふ事です。その中に、縄文時代も弥生時代もあるだらうといふ事です。全く従来とは異質な世界が眼前に開かれるのではないでせうか。

日本は、もともと再帰的な(recursive)な国だつた、日本人はそもそも再帰的な民族だった、日本人はそもそも再帰的に思考する人間だった、即ち八百万の、白人種のキリスト教の言葉でいへば、多神教の国であつたといふことです。外に敢へて、規範を求める必要の、そもそも無い国であるといふことです。

このやうに考えると、結果として、鎖国するでもなく、尊王攘夷でもなく、無条件にむやみやたらに(今時のやうなだらしのない)開国するのでもなく、日本人の美意識に則つた古来からの第三の道を私たちは行く事ができるのでは無いか?


これは、方便ではありません。

2016年12月1日木曜日

再びIntelligenceが求められる21世紀の冷戦

再びIntelligenceが求められる21世紀の冷戦

西村さま、

昨日の貴君とのジョルジュ・バタイユ談義の続きです。

今朝の此の時間に二人のやり取りのジョルジュ・バタイユ談義にアクセスした数は、324でしたので、この数字はunique numberですから、このアクセス数は、結局324人といふことになります。

貴君の読者15万人の1%は1500人。325/150000x100=0。22%。

日本人で哲学を学ばうといふ人間の数は極めて少ないので、貴君の設定した1%は、良い数字です。私も社員教育をして、社内募集をして30人を超えて始まった月一度の哲学の教育機会に、1年が終わる最後の日に出席して残つた人数は、2人でしたから。この場合は、6%で、私は大成功だと思ひました。この二人のその後については知りませんが、しかし、さうではない人間たちと比べて、人生が大きく変はつたことでせう。勿論、それが哲学を学んだせいだとは決して気づかないわけですけれど。

考へてみれば、intelligenceとふ英語の此の言葉の意味は、最高機密に触れて、その意味、即ち暗号を、即ち目明か・目明きであるのにも関わらず、同時に、暗い符号・記号・画号といふ(普通の人間の目には明らかではない)目暗らの情報(この情報はinformation)を解読する能力を有する者といふ意味なのだなと、さつき別のことを考へてゐて思ひました。

つまり、intelligenceとは暗号解読能力のことなのですね。だつて、これは私たち人類の持つてゐる能力そのものですよ。『ダヴィンチ・コード』のラングドン教授みたいに、私が安部公房や三島由紀夫や村上春樹の暗号を解読したみたいに。(別に自慢していつてゐるのではありません。)

と、してみると、日本の教育は愚民教育だな。

更に低学年から英語を入れるとは、何たる阿呆どもか、今の政治家と行政府の役人どもは。Intelligence、即ち暗号解読能力は、自国の古典(これが暗号そのもの!)を読む能力を養わずに、個人のintelligenceも国家の(組織的な)intelligenceも育つわけがないではないか。勿論、その教育も含めて。

旧帝国大学の、文字の通りに最高学府東京大学といふ此の末裔の大学の試験に、このcodeをdecodingせよといふ設問一つにして、別にわざわざ会場に来なくても良いから、自宅で何日以内に解読して何月何日何時必着として、メールにpass wordを掛けて(これも暗号化!)、資料は何を選んでも(但し根拠として典拠は明示すること)図書館にいつて調べても良い、むしろこの調査・探究といふ未知のものへの探査能力を見るのが眼目といふことにするわけです。土星へ向かつたボイジャーみたいに。

日本語ができないで暗号解読能力、即ちintelligenceが欠落して、言語を「駆使する」ことなど不可能、大人になつてから仕事ができるわけがねえだらうと、まあ、西村殿、言いたくなるのです。

でも、0。2%、この数字は凄い数字ですよ。何故なら、どの領域の統計も見ても此のパーセントは有意義ですから。

この人たちの年齢構成を知りたいけれど、多分今の日本の庶民の中に無名で隠れてゐるデカルトみたいな人たちだな、この人たちは、きつと。デカルトの座右の銘ふたつの内の一つは「よく隠れた者こそ、よく生きた者である」(bene vixit, bene qui latuit)といふのです。この0。2%で、今の日本の国は密かに保(も)つてゐる。勿論有名になつて(貴君みたいに)表舞台で活躍してゐる人たちも含めてですけれど。つまり、心根(こころね)のことがいひたい。でも、表舞台にゐる人たちが、このintelligenceといふ能力を密かに(密かにだよ)持つてゐることを、目暗らの人たちは知らない。

といふことは、20世紀の後半に、インターネットの登場する前後から流行して(今もさうで)ある、俗にいふ高度情報社会の興隆期に言われたinformationといふ言葉は、情報処理能力が要求されてゐたからだといふことが判りますね。だつて既成・既存の(国家から要求される)能力は、既に与へられた情報(information)の範囲で既知のことを処理する能力(intelligence)だつたといふことだから。だから、informationがintelligenceの優位に立つて、世界中に流布したのですね。

その情報は、コンピューターが計算して提供してくれる。しかし電子計算機にintelligenceは、ない。つまり計算処理能力だけの話の中での電子計算機だつた。だから、単位時間あたりの量的処理能力だけを人間は問題にしてコンピューターを設計開発して来た。

しかし、やつと、時代がまた元に戻つた。つまり冷戦時代の物語の主人公007のやうなintelligence(諜報)の物語を位相を変えて変形し、次元を一つ上げた物語が大当たりになる時代が来たといふことです。即ち、暗号を解読する物語の時代だといふことです。

といふ風に考へてくると、今人間に求められてゐる能力がとてもよく判りますね。国際政治も、国内政治も、国内外の経済のことでも、AIの飛躍的進展の理由も、といふよりも、AI(といふ此の外在化した私たちの脳)の自律的飛躍・飛翔から観える近未来の世界像のこと等々も。

情報時代、information時代の終わり、そして知識・諜報時代、暗号解読時代 、intelligence時代の始まり(もう既に始まつてゐる)。知識とは、体系化されたものですから勿論贅語ですが、しかし、体系的知識といふ意味です。後者は私の上の言葉でいへば、探査時代の始まり、調査・諜報時代の始まり、暗号解読時代の始まり。といふことは、何だ、何といふことはない、

再(ま)た、冷戦時代に戻つた

といふことになるではないか。

今度の冷戦は一つ上の次元の冷戦ですね。新冷戦時代。今度は、どこの国とどこの国のCold Warであるのか?

としてみれば、日本がCool Japanと白人種に呼ばれてゐて世界に広まつた、それも汎神論的キャラクターや映画や(日本語の小説に汎神論的な小説はありやなしや?あるとすれば、絶滅危惧種「純文学」ではなく)SFといふ日本民族産の文物が、紅毛人にとつてcoolだとといふことですね。最近の映画『シン・ゴジラ』も『君の名は。』も然り。前者は老若男女が、後者は若者たちが熱心なのは、やはり「ヤマト」民族の暗号を解きたいといふこと(松本零士の「宇宙戦艦ヤマト」も此の一環であり此の 先蹤せんしょう))、古典を神話を読みたいといふことを示してゐます。今の教育は、この社会的な欲求から言つても、阿呆教育、愚民教育です。一体私たちは誰のために生きてゐるだ?日本国民はキリスト教徒ではない。

この文脈の中にある私たちにとつて、日本がcoolであるとは、八百万の神と一緒に毎日暮らしてゐるといふこと、当たり前のことです。英語のcoolといふことから、もつと厳しい冷たさであり寒さであるcoldといふ英語があることを考へてみる、

と、このやうに考へて来ると、Cold Warとは、国家間の対立も含み、21世紀の今は、人間間の対立をいふことも十分に意味してゐるのではないだらうか。つまり、Globalism対Nationalismも、その一環の地球的な動きなのではないだらうか、と、まあ、ここから先は貴君の領分なので、お任せします。

Globalistは、information(情報)を処理して(今大流行中の政治・経済の、「増すゴミ」(由緒正しき名前は"mass communication")メディアによるデマゴーグもこれに入る)世界を支配したいといふ輩、ただただ資本主義の原理に倣つて金を儲けるために、金儲けが自己目的と化した輩。対してnationalistは、intelligenceを駆使して、近代の、白人種以外の地球上のすべての民族にとつての相変わらずの不変のテーマ、即ち民族の真の独立を図りたいと願ふ当然の人間たち。

といふことからいつても、やはり日本語の教育に力を注ぐべきは、古典教育、即ちまづ日本の神話を読ませること、古事記、万葉集、伊勢物語、大和物語、源氏物語、それから漢文と素読。即ち大政奉還から此の150年に及ばうとする(たつた150年!)日本の近代国家を可能ならしめた江戸時代の日本人の教育に戻ることといふことになるではないか。この江戸時代の日本人の深い教養の蓄積の上に、今の日本の国がある。(松尾芭蕉の俳諧は此の教養の上にあつて素晴らしい。)これを貴君に、今執筆を予定してゐる著作の中で是非論じてもらひたい。

先の敗戦後の阿呆政治家、阿呆官僚どもが此の教育を放擲して来たから(しかし、これはまた阿呆日本人どもの罪である。何故なら「戦後」民主主義の国であるから。以後「敗戦後」民主主義と呼ぶがいい)、若者たちは、古くはウルトラマンや仮面ライダーに、新しくはガンダムやエヴァンゲリオンに、これら英雄の物語に惹かれてゐる。おまけに、同じ原因でオウム真理教といふカルトまで出て来て国家転覆を図ることに至つた。テロリズムを、知らず知らずのうちに、日本の内国教育が産み育ててゐる。阿呆国家ニッポンである。と、段々語調が激しくなつて来たので、ここいらで止めます。

貴君に向かつて書くと、いろいろなことを、かうして考へて、新発見がいつも一杯あるなあ。ありがたう。

では、また、書きます。

その後のアクセス数の数字の推移はまた連絡します。今までの経験から見ますと、大体三日が目処ですね。0。3%に近づいたら大成功です。

本件ご返信ご無用。忙しき貴君なればなり。


岩田

追伸

日本の庶民が、「敗戦後」民主主義の時代に、(今や死語である)インテリなどと略称して呼んだのは、正解でしたね。これ庶民の知恵なり。何故なら、intelligenceが欠けてゐるから。次のinformationの定義がネットにあり。

「インテリまたはその原語であるインテリゲンチャ(ロシア語: интеллигенция、Intelligentsia、インテリゲーンツィヤ)とは、知識階級を指す言葉。なおそのような立場にある個人を知識人ともいう。対比語の多くは大衆(民衆)。」(vhttps://ja.wikipedia.org/wiki/インテリ)

この語源を読み解いても、その当人にintelligenceのあることの証明にはならないことを註記します。



2016年11月29日火曜日

西村幸祐氏との往復書簡1:ジョルジュ・バタイユについて

西村幸祐氏との往復書簡1:ジョルジュ・バタイユについて

岩田様

どうもありがとう。

村上論も拝読します。村上春樹に関しては、僕は『幻の黄金時代』で半分肯定・半分否定で取り上げた。「1973年のピンボール」は読んでいないので、いつか読んでみる。

ツイッターにバタイユの言葉をUPするアカウントがあって、こんなことを言っているので、

「私達は歴史の中でしか存在[=生成としての動き]を捉えることができない。つまり、変化の中で、ある状態から他の状態への移行の中でしか捉えられないのであって、別個に次々に眺められた状態の中では無理なのだ。-エロティシズ-」

僕はこんなコメントを残しました。

「つまり実存はSein(ザイン・存在)とZeit(ツァイト・時間)の積だ。ハイデッガーに於ける〈現存在〉をバタイユはここで再定義したかったのだろう。しかも「時間」を〈歴史〉と言うことでバタイユの存在論はハイデッガーよりアナログになった。エロティシズムの本質はアナログなのかも知れない」

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西村様、

バタイユや貴君のコメントをありがたう。

1。キリスト教と哲学
この年齢になって、やっとヨーロッパのキリスト教といふ一神教、唯一絶対のGodしか存在しないといふ論理から白人種が逃れるために生んだのが哲学といふ学問であり、言語科学であること、その上に物理学その他のいはゆる科学が生まれたことを明解単純に知るに到りました。

2。バロックの時代
それが、パスカル、デカルト、モンテーニュ、ライプニッツ、ニユートン等々のヨーロッパの17世紀の哲学者や数学者を兼ねる人間たちです。

このバロックの眼で見ますと、このバタイユ専門のtwitterにあるジョルジュ・バタイユの次の言葉:

「ジョルジュ・バタイユ ‏@G_Bataille_jp 2時間 2時間前
[超キリスト教的な]世界観に従えば、神から離れ、落ち来たるものは、もはや人間ではない。神自身(或いは全体性と言っても良い)だ。この見方において神は、神概念と同程度のものを内包している。いやむしろより多くを内包している。ただしこの「より多く」は神そのものである故に自分を無化する。」

といふ言葉は、やはりキリスト教の範囲を出ない。この思考論理では、最初から限界があります。しかしどこを志向してゐるかは、白人種の論理としてよくわかります。

Godといふ絶対的な存在が、自分自身に再帰(recursive)すべきだとバタイユは言ってゐるのです。この志は正しい。しかし、内包してゐると言ってしまふと、元の黙阿弥になってしまふ。

キリスト教のGodは、唯一絶対のGodですから、バタイユの論理になってしまふ。バタイユの思ひはさうではないのに、その論理の外に出たいと願ってゐるのに、です。

ここにキリスト教徒の(神学から来た)思考論理上の限界があります。上にあげた17世紀のバロックの哲学者たちは、これに対して汎神論的存在論です。(これはこのまま安部公房の世界なのですが、委細後日。)

ヨーロッパ人は、今こそ自分たちのバロック時代を想起すべきです。去年ドイツからバロック様式の建築の本を取り寄せて読み、最後のあとがきを見て愕然としましたが、このドイツ人のprofessorは、バロックといふ概念はあまりに多岐にわたり、定義することができないと、そのあとがきの冒頭に書いてゐるのです。今のヨーロッパ人は、バロックといふ概念を忘れてゐるのです、定義もできないといふひどい状態にある。勿論、この本の内容は良いものでした、しかし、それなのに、目の前に日常にバロック様式の建築物があるのにもかかはらず、さうだといふ現状は余りにひどいと思ひました。

大体キリスト教徒たる白人種の哲学者たちが、古代ギリシャのソクラテスを祖と仰ぐといふことが自己撞着です。何故ならば、古代ギリシャは多神教の世界だから。

今こそ白人種のヨーロッパ文明は、あの17世紀のバロック時代の精神を思ひ出すべきときなのです。さうすると世界中の多神教の諸民族(これが地球上の宗教の大多数だらう)とやっと話ができるやうになる。

キリスト教の正統派は、アリストテレスの論理学を、異端とされる人たちは、プラトンの哲学を選択したことも、やはり意義深いものがあります。後者はイデア論ですから、汎神論的存在論、前者はGodを主語に立てたら、この主語は唯一絶対で、あとは全て述語部に収まるといふ唯一絶対神の考へかたです。

後者は、主語と述語の関係は絶対的に固定して決して動かない。つまり言語論理の、思考論理の最初から持ってゐる再帰性(recursiveness)、即ち自己に回帰するといふ論理を禁じてゐるのです。これが言語からみた(安部公房の世界から見た)キリスト教の思考の限界です。それで、この500年を自分たちで大航海時代と呼びながら、私の言葉でいへば大虐殺時代の500年になったのは、この人類のそもそも持ってゐる本来の普遍的な思考論理を絶対的に、唯一神の名のもとに否定して来たからです。

長くなるといけないので一言でいへば、17世紀の哲学者は、唯一絶対のGodの存在を疑ったのですね。でもそれらの著作の表紙には、唯一絶対の神の存在証明のためになどと書かざるを得なかったのです。さうしなければ、ローマ法王庁に召喚されて、異端審問の裁判にかけられて、ガリレオのやうな目にあったのでせうから。

バロックの時代は、動乱の30年戦争のあったドイツの混乱を中心に、無秩序のヨーロッパでしたから、誰も彼もが、日本語でいふならば、神も仏もあるものか、とさう思ったのです。

バロックの時代とは何か、バロックの精神とは何かとひとことを卑俗な日本語で云へば、神も仏もあるものか、なのです。デカルトの精神、cogito ergo sumを、そんな風に言い換へることができます。

これはまた次回お会ひした時に詳細を。

3。貴君の引用してくれたバタイユの言葉へのコメント
バタイユ曰く:

「私達は歴史の中でしか存在[=生成としての動き]を捉えることができない。つまり、変化の中で、ある状態から他の状態への移行の中でしか捉えられないのであって、別個に次々に眺められた状態の中では無理なのだ。-エロティシズム-」

生成とは時間の中にあるものですから、あるいは時間によって生まれるものですから、バタイユのいふやうにいふことができますね。つまり、

「私達は歴史の中でしか存在[=生成としての動き]を捉えることができない。」

といふことです。しかし、そのやうな変化を捨象して、空間的に存在を考へることもできるのです。(これが安部公房の世界です。)

これが、このtweetに対する貴君のコメントですね。よくわかります、即ち、

「つまり実存はSein(ザイン・存在)とZeit(ツァイト・時間)の積だ。」

とどうしても言いたくなりますし、これが現実に生きることだと、つまり、積算といふ時間の存在しない空間(これは安部公房)と時間(これは三島由紀夫)を創造する計算のことをいふことになるのです。安部公房の言ひかたをすれば、このやうな積算値としての自己とは何かと云へば、それは、

存在(Sein)としてある自己のままに、即ち時間の中(変化の中)にある、更に即ち社会の交換関係の中にあって(社会とは時間の中では交換関係を人間に要求しますが)、いかなる役割も演ずることなく(役割を演ずるとは個人の分化ですから)、そのやうな交換関係のないままに生きること、これが実存であり、無償の人生であり、この人間のあり方を実存(これを安部公房は「未分化の実存」と呼んでゐます)といふのだ。

といふことになります。即ち、

存在(Sein)のままに時間(Zeit)の中で生きること

ですね。

貴君のいふ通りだと、私も思ひます。

「ハイデッガーに於ける〈現存在〉をバタイユはここで再定義したかったのだろう。」とあるのは、その通りです。

「しかも「時間」を〈歴史〉と言うことでバタイユの存在論はハイデッガーよりアナログになった。」とあるのは、これも、さうだと思ひます。

「エロティシズムの本質はアナログなのかも知れない」、ええ、エロティシズムの半面は、その通りです。そして、他方の半面は、「エロティシズムの本質はデジタルなのかも知れない」といふ真実です。前者は三島由紀夫の世界、従ひ西村幸祐は三島由紀夫の読者であり、他方、後者は安部公房の世界であり、かくいふ岩田英哉は安部公房の読者といふわけです。

僕の結論: 世界は差異である。

世界は差異でできている。これがバロックの哲学者や数学者たちの、神も仏も無い時代の、世界認識です。数学者としてのニュートンとライプニッツは微分と積分を創始しましたね。これらも差異に関する数学です。

考へてみれば、時間も空間も差異にほかなりません、勿論言葉の意味もまた差異なのです。これらのことは、あった時に話したい。

さて、といふ訳で、前者、即ち三島由紀夫の差異は、時間(時間は時差です)となって現れ、後者、即ち安部公房の差異は、空間(空間も差異、即ち隙間です)となって現れる。ともに、神聖なる差異であります。

前者の差異は河となって、三島由紀夫の愛唱したヘルダーリンの詩『追想』にあるやうに「豊饒の海」、即ち存在の中に流れ入り、若者は一人存在の海の、その永遠の航海へと出帆し、対して後者の差異は、安部公房が愛唱したリルケの詩にあるやうに、隙間となって神聖なる世界を荘厳する差異、即ち存在が其処に生まれる。

話は尽きません。

西村幸祐の健筆を祈る

岩田